「福島の惨劇は私たちのものでもある 」仏Slate.fr 3月15日付記事全訳


福島の惨劇は私たちのものでもある

サンドリンヌ=ベリエ

この惨劇を受けて、私たちも原子力との向き合いを再考し、電力の消費に関する民主的議論を行う必要にかられている。

津波を伴う地震、そして今も続く余震は日本全体に大きな影響を及ぼした。また、この一件に伴う人的被害も刻一刻と深まっている。日本国民の苦しみは私たちにとっても他人事ではない。私たちのそれぞれが、出来る範囲での支援を送ることが重要であり、また迅速な対応が求められている。国際支援の輪は広がりつつある。人命救助や行方不明者の捜索など、政府や公的機関による取り組みのみならず、既に組織されつつある支援の輪に加わることで、私たち個人としてできる協力もあるはずである。

この度の天災は、原発災害をともなった。福島の発電所が二度に渡る爆発に見舞われたことに加え、女川と東海の発電所も被害を受けている。人々の生活にも大きな影響を及ぼしておりTwitter上では日本国民の不安の声が日増しに聞こえてくる。刻一刻と、時間の経過に伴い、高まりつつある恐怖が、遠くの私たちにも伝わってくる。そしてこの災害は天災ではない。運命という言葉で片付けることのできない問いを私たちは突きつけられている。

この一件で始まった原子力をめぐる議論に終わりがあってはならない。数週間、数ヶ月に渡って、続けていくべき類いのものである。

感情を理性に

この悲痛な現実から得た教訓を未来につなげること以外に道はない。20万人を超える人々が現在、福島の原子力発電所の20キロ圏外に避難している。皮肉にも、この事こそが、原子力に頼るエネルギー生産がゼロリスクではあり得ないこと、そして、危険と破壊を回避できない手段であることを意味している。日本で現在機能している55の原子炉のうち、11箇所が今回の地震の被害を受けた。日本は自国の電力の供給にあたり、これまで原子力に依存してきており、今日少なくとも500から600万世帯が電力の供給を断ち切られてしまっている。

原子力に主力を置いたエネルギー政策は40年来、フランス政府が取り組んできた賭けでもあった。フランスの原子力によるエネルギー供給は日本に次いで2位。私たちの政府は原子力開発の分野において、世界的に見ても優位な立ち位置にある。つまり、日本の今回の惨劇は他人事ではなく、この件を重く受け止め、理性的な判断を導く必要にかられているのである。

真実から目を背けてはならない

仮説にすぎない安全策を寄る辺とすることをすぐさまやめなければならない。世界でもっとも進んだ原子力保安体制を敷いていた日本においても、その政府の対応はいきあたりばったりの様相を呈している。海水で溶炉の冷却を施すというレスキュー隊による施策も、緊急の対応を余儀なくされる中での実験的なものでしかなかった。時を同じくして、ラ・アーグに所在地を置くフランスの原子力企業アレバ社のフランス労働総同盟(CGT)所属の労働組合は、フランスにおける原子力保安施策もさらに強化すべきであるとの公式発表を行った。

フランスのエネルギー担当大臣であるエリック・ベッソンの「原子力を問題視することは事態の部分的な解決にしかならない。少なくとも今回日本が見舞われた被害においては、最重要な課題ではない」という第一声はお粗末と言わざるをえない。ベッソン氏には、人道的常識を思い出して頂きたい。災害は個別に比較されるべきものではなく、相乗して膨れ上がるものであるということを理解して頂きたい。数ヶ月前、革命下のチュニジアへの対応に際して前外相のミシェル・アリヨ=マリー氏が眼前の現実に抗えなかったことと同様に(訳注:昨年末のジャスミン革命の最中にチュニジアで休暇をとり、その際にベン・アリ旧政権から便宜供与されたことで糾弾され、今年2月に更迭された)、今回のベッソン氏も、第一声から24時間後にようやく「原子力による被害は甚大である」との訂正をおこない、原子力による「災害」の可能性を否定できないことを認めるに至った。

この対応は1986年、今から遡ること25年前のチェルノブイリの原発事故を受けて、「フランスの安全が脅かされたことは一度としてない」と明言した当時の産業相、アラン・アドランの発言を彷彿とさせる。今日において私たちは、有識者たちの確信や嘘や沈黙を疑うべきである。現政権の政治家は、自然災害が予測不能であるという言説(それだけではないが)に隠れて自らの責任を放棄している。原発においては、事故による被害が甚大である結果が分かっている以上、予測不能であるという言説を振りかざしている余裕はない。

沈黙の掟は破られなければならない。嘘の広告に終止符を打たねばならない。原子力産業の専門家たちには開かれた議論を求めたい。手札をすべて明かし、すべての判断材料を開示した上で、恐怖と背中合わせになってでも原子力と共に生きる「価値」があるのか、市民一人一人が判断できるべきである。汚染された土壌や核廃棄物処理の対価を、負担するのは誰なのか?廃炉や再生の対価を負担するのは誰なのか?「予測不能」とされる事故による「予測不能」な被害の対価を負担するのは誰なのか?フランスとヨーロッパにおける今日の原子力開発は誰に取って有益なものなのか?その代償として、他の潜在的なエネルギー源やそれに伴う投資はおざなりにされてはいないのか?

民生核エネルギーの開発に関する議論の再開は、民主主義に関わる問題である。「原子力反対、もしくは賛成」という単純な二者択一の問題に、この議論を閉じ込めてはならない。エネルギー問題に関する民主的議論の場を構築する必要がある。また、私たちの子供、そして彼らの子供に対する責任という社会的視点から、改めてエネルギー問題を問う必要がある。将来に向けて、社会全体で、エネルギーの生産と消費を見直すことが求められている。技術の革新に未来への糸口を求めるならば,エネルギー生産拠点の再配置と、グリーンエネルギーの開発とエネルギー効率化を両立させる生産体制の見直しを検討すべきである。明日への恐怖を、そして、人類の未来よりキャッシュフロー上の利益を優先させる数ある国際的大企業への従属を、私たちは過去のものとしなくてはならない。

市民には、民生核に関する議論の場と、それに関わる投資額から環境や健康への被害まで、確実かつ公正な情報を求める権利がある。複数あるエネルギー源を比較して、それぞれの損得を見極めた上で、選択をする権利がある。例えば、この2月7日に、仏原子力安全局(ASN)が、フランスにある34の原子炉において安全上の問題が確認されたことを発表したこと、かつその幾つかが原子炉心の冷却装置に問題を抱えているとしたことを、今日どれだけの人々が知っているだろうか?

安全は権利である

原子力開発は、大いなる潜在的な危険を秘めている。このことは誰にも否定できない。そのリスクを背負うという決断を何年も前に私たちは下した。そのリスクがもたらした苦悩が現実となることで、今一度、私たちが置かれている状況をあるべき姿に戻すことができるのではないかと私は考える。スエーデン、ベルギー、スペイン、ドイツ、これらの国はすでにそうしている。フランスで最も古く、地震帯に位置する原子力発電所であるフェッセインハイム原発を閉鎖して、廃炉と再生の実験の場とすべきではないか。フランスとヨーロッパにおいて、市民の議論を求めよう。国家に対して自らが抱えている矛盾を突きつけよう。

福島原発の惨劇は今日、日本に住む女性たち、子供たち、そして男性たちに対するまなざしと想いを共有する全ヨーロッパ市民と共に、私たちの民主的議論をはじめる契機とならなくてはならない。

サンドリンヌ・ベリエ

追補:月曜に、欧州議会とともに、日本の人道的緊急事態と復興に関する支援を行うための施策を検討する臨時総会の開催を、私が所属する「日本との関係のための代表団」の会長に対し、要請した。シルビー・グラール含むADLESDEPPEの複数の欧州議員の賛成を得ている。

サンドリンヌ・ベリエは弁護士で環境保護運動「フランス自然環境(France Nature Environnement)」の元会長。環境グルネル会議(le Grenelle de l’environnement)の交渉役を務める。2009年7月にはエコロジー会派「ヨーロッパ・エコロジー(Europe Ecologie)」の欧州議会議員に選出された。

出典記事http://www.slate.fr/story/35565/centrale-nucleaire-japon-france-sandrine-belier-catastrophe-fukushima-la-notre

 

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